慈愛、思考、感受、興味。
学生の頃、僕はいつでもたくさんの視線を受ける場所にいることが多かった。
だがそれは僕が人に好かれることをするのではなくて、人が嫌がる事をしないだけなのではないかと思う事がある。
僕にはある種の能力というか偽りがあると感じるときがある。
別に自分ではそう感じないが相手からしたらもしかしたら偽りなのかもしれない。
それは色々な話を引き出しに蓄えて、誰かと話している時に、その話題で10の知識を持ち合わせている相手に対して3や4の知識で10にも魅せる事が出来る事である。
コトバの発するタイミングや思う存分の知識をかいつまんで話す事で、その知識に奥行きがあるようにみせるのである。
これは別に意識してやっているのではなくて、自然とそうなってしまう。
だから僕がわからない事柄に対して相手に質問を投げかけると、たまに『え、それわからないの?』という顔をされる事がある。
たまにそのまま話が進んでしまって、後に猛勉強して知識を得ないと話に着いていけないという事が過去にあった。
おそらくこれは行動にも出ていて、どこの国へ行ってもそこに長く居る人と勘違いされる。
明らかにアジア人なのだけれど、路を聞かれることも多い。
ただ単に老けているから年相応の反応をされただけという解釈も出来なくもないが。
その土地に馴染んで生活することが上手いのかもしれない。
僕は興味の惹かれた相手には素直になれる。
幼い時は自分をより大きく魅せて自分を過大評価して欲しいと思ったけれど、今は自分の事より相手をより知りたいと思う事が多い。
それは男性、女性関係なく。
おそらくそれは自分を誰もそんなに気にしていない事に気づいたからだと思う。
これはよくも悪くも海外で6年間生活してきたから感じる事が出来るようになった事と同時に『本を読む』という行為を行い始めたからだろう。
幼い頃に父と母、兄にあれだけ本を読みなさいと言われた事が最近はより理解出来るようになった。
本の中の世界は広大で自分のちっぽけさをより感じさせてくれるのと同時に、物事を一元的に捉えてしまいがちだった自分を二元的、又は多元的に捉える事が出来るようになった気がする。
まぁ偏にそれが幸せかと聞かれたら素直に『はい』とは応えられないけれど、そう感じるようになってしまったのだから仕方ないでしょう。